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最上軍と伊達・上山連合軍の決戦の地

成沢城跡 柏木山合戦

柏木山古戦場跡は愛染神社南側の現在、東北中央自動車道、山形西バイパスが通り、みはらしの丘が造成された丘陵一帯になります。

成沢城を巡る合戦として柏木山(現山形市大字松原)の合戦があります。軍記物語によると、元亀から天正年間(1570年代初頭)に最上義光と敵対していた上山城主の上山満兼は、米沢城主の伊達照宗の援軍を得て最上領に攻め込もうとしました。

これに対して最上義光は、成沢城に伊良子宗牛という家臣を援軍として派兵し、城主の成沢道忠とともに籠城の構えを見せていました。
上山・伊達連合軍は成沢城には城兵をくぎ付けにするための押さえの兵のみを残して、本隊は山形に向けて進軍を開始しました。

そのため、最上義光は重臣の延沢能登守や氏家尾張守らを伴ってこれを柏木山付近で迎え撃ち、激しい戦闘となりました。最上軍は伏兵の鉄砲隊を太鼓の合図とともに伊達輝宗の本隊に撃ち掛けたところ、上山・伊達連合軍は総崩れとなり最上軍が勝利を得ることになりました。

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  • 成沢道忠

    戦国時代の武将で、最上義光の家臣として活躍しました。
    元亀から天正年間(1570年代初頭)に最上義光と敵対していた上山城主の上山満兼は、米沢城主の伊達照宗の援軍を得て最上領に攻め込んだ時に、成沢城主として敵の侵入を食い止めています。また、天正13年頃(1585年)に最上義光が庄内余目の安保氏を攻めた時に先陣を務めています。
    上杉家の家臣直江兼続が山形を攻めた慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦の時には、長谷堂城主志村伊豆守光安とともに合戦に参陣し大活躍しました。
    慶長出羽合戦の功績で5000石を賜りました。晩年は奥州の松島に移り住みその地で亡くなったと伝えられています。

  • 成沢城出土の脇差

    明治35年に主郭の北側下から発見された刀剣です。全長は67cmで無銘ですので脇差と考えられます。鞘や鞘の一部と思われる金具も一緒に見つかりました。
    鞘の形状などから戦国時代頃の作と推測されます。手で握る柄の部分がやや短いので片手で使用する実践的な刀剣だと判断されます。

詳細情報

柏木山古戦場

住所 : 山形市大字松原

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